2014年06月23日

保護者面談 その1

わが教室では本日より保護者面談を開始しました。

年間予定上で決まった保護者面談としては開校後初めて。

保護者の皆様にご足労いただき、教室での指導の様子とご家庭での様子の情報交換、今後の指導方針、夏期講習のご案内をさせていただいております。

私自身、個別指導塾で仕事をして既に15年。

いろんな方といろんな場面で保護者面談をさせていただいてきました。

もちろん他塾から転塾してきた方、他塾で勤務経験のあるスタッフなどと接する機会も多かったため、他の塾では面談の様子がどんな感じなのかも知る機会が多くありました。

今日は私自身の経験も含め、「これはどうだろう…」と思う面談についてお話ししたいと思います。



まず一つ目の例です。

大規模な個別指導塾によくある会話の例として、こんなのがあります。

担当者「○○君、よく頑張ってますよー!」

保護者「本当ですか??」

これ、本当でない場合もあります。

と言うのは、面談担当者(大体の場合教室責任者)が、その生徒のことをよく分かっていない場合も少なからずあるのです。

成績は書類で把握、授業の様子は時々見に行くけれど真面目にはやっているよう、でも実はあまりよく知らない、って程度の知識です。

私自身の過去の経験ですが、生徒が200名を超える個別指導塾の管理をしていたことがあります。

授業のブースだけで30以上、講師も30名以上です。

こんな場合、すべての生徒について授業の様子を面談の場で細かく報告したり、生徒自身がこんなことを言っていたなんて情報を提供したりとかはかなり難しいです。

当然結果として表面上の話になってしまいます。

「前回のテストの結果はこうです。ご覧の通り数学が弱いですね」みたいな。

いや、それはテスト結果を見れば分かりますよね、って程度の話になってしまいがちです。

「授業の様子はどうですか?」

「大丈夫ですよ。しっかり取り組んでいます」

みたいに、授業の報告ともなると細かいことまで把握できていないため当たり障りのない対応になってしまいがちなわけです。



二つ目の例を挙げます。

保護者「うちの息子、きちんとやっていますか?」

担当者「ええ。問題ないですよ」

こんな感じで当たり障りのない話に終始した場合、何かある場合がなきにしもあらずです。

褒めることができる材料については当然塾側にしても報告するのが嬉しいわけです。

「最近目つきが変わってきました」「学校の授業が分かるようになってきて嬉しいって話していました」

こういう話題を話さない担当者はいません。

でもね、ネガティブな報告材料と言うのは話しにくいわけです。

「授業中の様子がこういう点でまだまだです」「学習意欲がまだ不十分です」

こういったことは言い辛いんです。

でも保護者様の立場で言うと、ダメな点ほど教えてほしいって思いますよね。

もちろん同時に「だから塾に通わせているんでしょ」という思いもあるでしょう。

だから塾側は「こういうところがまだまだですので、こちらではこういう指導をしています。簡単に成果が出るものではありませんので、こちらとしては引き続き根気よくこの指導方針で進めていくつもりです」と言う風に、現状で不十分な点・現在の指導状況・今後の指導方針をあわせてお伝えしなければなりません。

そういうビジョンがないと、「この点が不十分です」と指摘がし辛いわけです。

これって「風邪ですね」って診断をしながら、薬も出さず予防法も教えていない医者みたいなもんです。

風邪かどうかを聞きに来たんじゃなく、この具合の悪さを何とかしてほしいと思って病院に来ているわけですよね。

学習塾においても同じです。

「こういう点が不十分ですね」って報告しても、それが性格的なものやこれまでの学習の仕方の『癖』から来るものだとしたら、面談担当者よりも保護者のほうがよくご存知だということも往々にしてあります。

「集中力が持続しませんね」

「今まで散々言われてきています」

みたいなやり取りだけで、保護者の方が得るものは何かあるでしょうか。

「だから指導上でどういう風に改善をはかってくれているの?」って思うだけでしょう。

保護者面談って、そういうビジョンをあらためて保護者の方に伝える場ではないかと思っています。

それが十分に伝えられるだけの指導ができていない場合、どうしてもネガティブな報告材料はオブラートに包んで話を進めてしまう。

そういう面談では有意義とは言えませんよね。



最後にもうひとつ。

保護者「うちの息子、きちんとやっていますか?」

担当者「ええ。問題ないですよ」

上記同様、こんな当たり障りのない受け答えの場合、もしかしたら先生が生徒に遠慮しているのかもしれません。

気弱な先生の場合、生徒が「先生お母さんに余計なこと言わないでよ!」って言うもので、生徒との関係を険悪にしたくないためか何かはわかりませんが、生徒に遠慮してしまうのです。

まず面談で報告すべきことに「余計なこと」はありません。

生徒が「先生のせいで家でお母さんに怒られたじゃん!」って言っても、「それは先生のせいじゃなくあなた自身のせいでしょ?」ってことです。

なのに遠慮して本当のことが報告できない。

生徒の顔色を伺うと言うか、ごまをすると言うか。

もしかしたらへそを曲げて塾を辞めちゃったらどうしようなんてことまで考えるのかもしれません。

そういう頼りない先生もいないわけではないんです。

以前私の部下からこんな相談を受けたことがあります。

「生徒を叱れないんです。と言うより、叱り方がわからないんです」

叱る必要性がない状況だったらかまいませんが、年間を通して一度も叱る必要性がなかったなんてことは絶対にありません。

その部下も「叱らなければ」という場面に遭遇し、でも叱れなかったから相談してきたんでしょう。

『叱らなければという思い』より『生徒への遠慮』が勝ってしまっているわけです。

ダメな時には叱ることこそ愛情です。

もしかしたらその瞬間は生徒が不満を示すことがあるかもしれません。

でもそれに遠慮しているということは本当の意味でその子のことを大事に思っていない証拠です。

先生が生徒に遠慮しているような環境の塾か、規律ある環境の塾かは、生徒がいる時間帯に行ってみればすぐに感じ取れると思います。



以上、ダメな面談例をいくつか挙げていきました。

プレストでは、できていないことはできていないとストレートに報告しています。

オリジナルの通知表を作り、担当講師が自身の主観での評価(5段階)とコメントを書くわけですが、本当に到達状況がよくなければ遠慮することなく『1』とつけさせています。

で、だから現在どうしているか、これからどうするかをきちんと報告しています。

できる限り課題を明確にしてそれを共有するような場にしているつもりです。



本当は夏期講習のことについても触れたかったのですが、すでに結構長いので次回に回します。

個別指導の場合、講習の授業はオーダーメイドで、受講する科目や時間数などはすべて相談の上で決めるような形式の塾が多いと思います。

その場合、講習の受講詳細を決める上で塾側の提案を踏まえて検討される場合がほとんどでしょう。

その『塾からの提案』というところに焦点を当てて述べてみるつもりです。

その提案は妥当かどうか、ってことを考えてもらう助けになればと思っています。

とりあえず今回はこれにて。







posted by 塾長 at 19:08| Comment(0) | コラム | 更新情報をチェックする

2014年05月14日

教育とは生きる力を養うもの

ある学習塾の責任者の方と、私立高校の入試難易度や大学合格実績の話をしていたときのことです。

各高校の大学合格実績一覧に目を通しながら、その方がこんなことを言いました。

「我々のときには名門と言われた高校でも、現在の合格実績は過去からは想像もつかないほどダウンしている高校もありますね。例えばこの高校なんかは、我々のときには憧れの学校のひとつだったのに、今ではこの程度の進学実績ですから」

そう言って彼が実際に名前を挙げた高校は、「生徒の自主性を重んじる自由な校風」を特徴としている学校でした。



自由を売りにしている名門校は、自由だからこそ生徒個々にしっかりと自分を律する力、自ら取り組む姿勢を暗に求めます。

結局、こういう学校の実績の低下は、現在の生徒たちの『与えられないと勉強できない』『自分から能動的に取り組めない』という問題点をそのまま投影しているようにも思います。



ここでひとつデータを紹介します。少々古いデータですみません。

2006年、財団法人「日本青少年研究所」が東京と北京・ソウルで小学4~6年生に対して行った『学習を巡る子供の意識』に関する調査です。

目指す人間像の一つとして「勉強のできる子になりたいか」と質問したところ、 「そう思う」と答えたのは 東京が43.1%だったのに対し、北京78.2%、ソウル78.1%と他の2都市はいずれも7割を超えていました。

また、「将来のためにも、今がんばりたい」と考える小学生も、東京48.0%に対し、北京74.8%、ソウル72.1%と、大きな開きがありました。



このデータは学習意欲に関する調査結果ではありますが、同時に勉強のやり方(能動的か受動的か)も窺い知れるデータではないでしょうか。

「日本の子どもたちは自ら学ぶということが苦手で、受動的な勉強になってしまっている」とも受け取れるデータです。

与えられたことはやる、しかし与えられないと何もできない…。実際に学習塾の現場で指導していても、そういう生徒が多いように感じます。



ところで、以前にこのブログで『知識と知恵』という話を書きました。

その中で「なぜ勉強しなければならないのか」という質問に対しては、「知識だけでなく知恵も養うためだ」と私は答えていると述べました。

自ら課題を見つける力、またそれを打ち破っていく力も生きていく上で非常に大切な知恵のひとつです。

当然、それを学ばせることも非常に大切な教育です。

そういう意味では、何もかも与えた上でそれをこなすことを求める教育は、本来求められるべき理想の教育のあり方とは違うような気がします。



これは私たち学習塾の指導にも問題があるでしょう。

志望校に合格させるため、よい点を取らせるために解法のテクニック等の知識に偏った指導になり、あれもこれもと全てを生徒に与えてしまう。

そういう詰め込み教育の結果、仮にその生徒は志望校に合格できても、自ら進んで取り組む力が養われていないため、上記のような自主性を重んじる高校の場合だと、入学してから与えられるものが減り、何をしていいか分からないという状況に陥る恐れがあります。

また、当然のことながら、与えられることでしか自分の勉強を進められないような状況では、社会に出てからさらに大きな苦労をするということにもなりかねません。

たとえば組織の中で仕事を行う際にでも、与えられたことしかできない人間は戦力として期待されません。

社会の一員として活動する上では、学校の勉強以上に自主性や積極性、あるいは創造性などが求められます。

「言われたことしかできず、具体的な指示がないと動けない社員(部下)が多くなった」という声もよく聞きます。

それもやはり知識偏重の教育により生まれた問題なのかもしれません。



教育とは本来、生きる力を養うものではないでしょうか。

知識偏重で知恵を軽んじる教育は決して理想的な教育の姿とは言えないと思います。

志望校に合格させること自体は大切なことです。

しかし、その過程においては「自分の力で合格を勝ち取らせる」ということが何より大切なことであり、そういう指導によってこそ、本当の意味での生きる力は養われるのではないかと思います。






posted by 塾長 at 21:55| Comment(0) | コラム | 更新情報をチェックする

2014年05月08日

言葉遣いについて考える

前回『ありがとう』『すみません』について書かせていただきました。

こういう『相手に自分の思いを伝える言葉』というのは何よりも大事なものでありながら、きちんと言えない子が多いように思います。

さらに『おはよう』『こんにちは』『さようなら』という単純な挨拶でさえしない子すらいるようにも感じます。

敬語に至っては、きちんと使えない子がほとんどです。

もっとも、敬語は非常に難しく、私自身はじめ大人でさえ十分に理解し正しく使えているとは言い切れませんが。



(問題を指差しながら)「センセ、これ」

これまで多くの生徒の指導をしてきましたが、授業をしていて生徒がこんなことを言うときがあります。

ちなみに上は、正確には「先生、この問題が分からないので教えてください」ということを言いたいときの発言です。

こういうとき、私は(言いたいことは分かっていても)こう聞き返します。

「これ?これがどうかした?」

するとその生徒からは決まってこう返ってきます。

「わからない」

「わからないからどうした?」と私。

「教えて」と生徒。

ここまで誘導してようやく言わなければならないことをすべて言い終えた形になるのです。

問題点としては、まず敬語が使えていない。それと助詞(が・に・を・は)を省略し、単語だけを並べて話そうとする。

ご家庭でもお子さんの言葉に対してそうお感じになる親御さんは多いのではないでしょうか。



こういう不十分な言葉遣いの原因はいろいろあるでしょうが、そのひとつとして、やはり家庭での教育が十分ではないという面があるのは事実でしょう。

家庭というものの性質も大きく変化しており、ここにも問題はありそうです。

昔は親・子どもと一緒におじいちゃんおばあちゃんが同居していました。

おじいちゃんなどは特に普段は優しいのですが、礼儀作法に関しては厳しく教育する方が多かったように思います。

しかし今は核家族化・共働き・少子化などで、家庭でしつけやマナーを学ぶ機会が減っているように思います。

また学校においても、以前はどの学校にも必ずいた『とてつもなくおっかない先生』がいないようにも思います。

部活等においても、先輩後輩の間柄が厳格でなく、先輩に対しても友達感覚で話せるようなところも多いです。

私が中学生のときの部活動では、先輩の存在は絶対で、校舎内で休み時間などに先輩とすれ違うときなどは、こちらが何をしていようとも手を一旦止めて直立不動で先輩の姿が見えなくなるまで挨拶をしていました。

そこまでの軍隊的な強制が必要かどうかは別として、それによって学んだ礼儀作法も少なからずあるのは事実です。

今の子たちにはそういう『厳しくしつけられる機会』というものが少なく、よくない言葉づかいに対しても注意される機会が減っているのでしょう。

それが言葉の乱れや不十分な表現につながっている一因であるとも言えると思います。



こういう子どもたちが大人になり、社会に出て、会社で上司に「部長、これ終わった」などというひどい言葉遣いをするということはないかもしれません。

年齢とともにコミュニケーション力は上がりますから。

しかし、近年企業においても新入社員の言葉の乱れがよく話題になっていますし、以前に行われた調査では新入社員に対して一番重要視するのは言葉遣いだという結果が出ています。

つまり、正しい言葉遣いは年齢とともに身につくと言っても、その都度学ぶべきものであり、学びの機会が不足したまま放っておいても自然と十分なレベルにまで向上するというものではなさそうです。

ご家庭においては、お子さんの言葉遣いでよくない表現や不十分な表現があれば、あえて言い直させてください。

一度の注意では何も変化しないかもしれませんが、それらひとつひとつが『学びの場』です。

そういう機会をいかに多く作るかが、しっかりとした言葉遣いをできるようになるかどうかのポイントであると思います。



ところで、もちろん言葉は時代とともに変化します。

たとえば、「こだわる」という言葉。

この言葉は以前は『どうでもよいような些細なことにとらわれる』というマイナス的要素の強い言葉でした。

しかし今ではプラスの意味でも使いますね。

むしろプラスの意味で使うことのほうが多いかもしれません。

『こだわりの料理』は「どうでもよい材料の選定や味付けにいちいちとらわれた料理」ではないですものね。

また、最近は「素晴らしい」の意味で「やばい」という言葉を使う場合があります。

「この料理やばいよ!」と言ったら、最上級の褒め言葉になるのでしょう。

こういう新しい表現が徐々に使われ始め、いずれ当たり前に使う言葉となる。そしてごく自然な日本語としていつの間にか定着する。

そういう意味では今の子どもたちの使う言葉をすべて「言葉の乱れだ」「おかしな表現だ」と否定すべきではないでしょう。

しかし、変わっていくべき言葉がある反面、変えてはならない言葉もあります。

『おはよう』『ありがとう』『すみません』が省略されてよいはずがありません。目上の人に敬語を使わなくてよいはずがありません。

そういうマナーを含んだ言葉遣いについては、まわりの大人がしっかりと教えていくべきことなのではないかというふうに思います。



posted by 塾長 at 20:24| Comment(0) | コラム | 更新情報をチェックする